「自分」の価値について考える(阿部拓郎)
自分の無力感に負けそうになることは誰しもある。私の場合、毎日だ。人ができることができない。気がついて当たり前なことに気が付けない。正しいと思ったことが間違えている。良かれと思ったことが裏目に出る。だけど、マイペース以上に動けないので心は焦っていても体や頭は過剰に動けない。 たくさんあるコンプレックスを数えればキリがないが、一つ例に挙げるとすれば天然パーマ。私の頭のパーマはとにかく激強だ。毎日、髪は形や方向を変えて360度縦横無尽に跳ね回る。セットしても無駄。海外の神話にメデューサという髪が蛇の化け物がいるが、控えめに言ってまさにそれ。そのため子どもの頃から天然パーマが恥ずかしく、どうにしかしようとあがいたが、ワックスで形を固定しても時間経過でぐちゃぐちゃになるし、整えようと整髪剤を追加するとベタベタになってしまう。髪を短く維持しようと思っていても、生来面倒くさがりな僕は、ついついサボってしまう。これは私が悪い。 しかし、最近は開き直って髪をあまり切らないようにしている。なぜか。「髪がもじゃもじゃな人」という風に覚えてもらう機会が増えたからだ。たまたま忙しく髪を切らないでいたら、その天然パーマが次第に人の記憶に残りやすいシルエットになっていったのである。これは案外うれしく、人と接する機会の多い仕事をしている私としてはかなり役に立っている。 極端な話、これは私が生まれ持った個性が役に立ったということにほかならない。私にとっては劣等感の代物でしかなかった天然パーマだが、他人からしたら覚えやすい記号となり、何故か分からないが親しんでくれているようでもある。 結局のところ、自分の価値は自分ではなかなか気が付けない。誰かに気が付いてもらうことで初めて分かることもある。天然パーマの例えはささいだが、個人的には大きな衝撃だった。コンプレックスはいまだたくさんあるが、それを自分の個性だと、胸を張って言えるようになっていきたい。