「あの日から今もこれからも」  (松浦美穂)
2022年も明けたばかりと思っていたが、あっという間に3月。新型コロナウイルスの渦中に身を置くようになってから3年目。マスク生活もすっかり当たり前となってしまった。そして3月は、別れの季節でもあり、決して忘れることのできない祈りの月でもある。
私は生まれも育ちも40年以上宮城県民だが、3年ほど県外に住んでいた時期がある。さいたま市に住んでいた時にあの東日本大震災は起きた。
その日は、家族でランチバイキングを楽しんだ帰り道。さいたま市内でも走っている車の中で分かるほど、大きな揺れを感じた。すぐに路肩に車を止め、車外に出ると、大きく揺れる信号機や電線、積み重なっているタイヤが崩れ、たくさんの人々が外に出てきていた。
揺れが収まり、そのまま帰宅すると、家の中は、高い所に置いてあった箱が落ちた程度。近隣では屋根瓦が落ちたり、壊れたりする被害も出ていた。テレビをつけると、仙台空港に大津波が押し寄せている映像が流れており、字幕には仙台市荒浜に200〜300の遺体等、これは現実なのか、悪夢なのか、変わり果てた故郷の姿が、あまりにもショックだった。もちろん大河原の実家、義母とも連絡がつかず、80代後半だった仙台市内に住む祖母にも公衆電話から何度も電話をかけた。黒電話を使っていたことで祖母とは日をまたぐ前に連絡がつき、無事を確認できた。
石巻の被害は壊滅的で甚大だということも分かった。でも、あまりにもたくさんのお世話になった方々がいらっしゃり、一体誰に連絡をしていいのかが分からない。遺体安置所の名簿を毎日確認しながら、とにかく無事を祈った。フジテレビの「とくダネ!」にラジ石のみんなの顔が映ったときは涙が出た。
大勢の方々が支援に入ってくださったが、当時2歳、0歳の子育て真っ最中だった私にできたことと言えば、近所にあるドラッグストアの募金箱に毎回お金を入れること。これだけである。被災しなかった、何もできなかったという事実は私を苦しめ続けた。誰も責めていないのは分かっている。むしろ、よかったねと言われることの方が多い。私を責めているのはまぎれもなく自分なのだ。
震災の半年後、宮城へ戻ることになった。そして、何度か3月11日を石巻で迎える機会に恵まれた。私にできることは、やはり今も祈ること、寄り添うこと、伝えることしかできない。これからもずっと。(パーソナリティー・松浦美穂)